芸能評論家の矢野誠一さんが「思い出すつかのこと」という随筆に、印象的なシーンを書き留めている。
東京の四谷に今はもうない演劇人のたまり場があり、人気が沸騰していたつかさんも出入りしていた。
Fというそのバーの常連には演劇界の重鎮だった評論家、戸板康二がいた。
がんで声帯を切除する手術の前、病院を見舞ったつかさんは「先生、あと3年は生きててください」と励ましたそうだ。
戸板は元気に回復した。
あるとき、つかさんがFのガラスごしに中をのぞいている。
外に出たマダムの前でかなりの厚さの札束をポケットから取り出し、渡そうとした。
矢野さんは店内で「あんた、そんなことして先生が喜ぶとでも思ってんの」というマダムの怒声を聞く。
マダムによると、戸板先生が元気に酒場通いができるようになったのがうれしい、今後の勘定をもたせてほしい、とつかさんが申し出たのだそうだ。
怒られて、札束はすぐ引っこめた。
「あのひとは、お金出すのも早いけど、引っこめるのも早いんです」。
そんな声も矢野さんは拾っているが、目に浮かぶような話だ。
今年、没後10年。
(日経新聞・朝刊 2020.11.21)