論理言語と日常言語

論理言語と日常言語 私と仕事、どっちが好き?

経済学の教科書を繙(ひもと)くと、りんごとみかんの話が出てくることがある。

りんごとみかんのどちらが好きか、と訊かれても「りんご」「みかん」とは答えられない。

りんごばかり食べているとみかんが食べたくなるし、みかんばかり食べているとりんごが食べたくなる。だから答えは、「りんごを1個食べた今ならりんご1個とみかん2個は同じくらい好き」などとなる。

りんごとみかんならそれでよい。しかし、この話を社会生活に安易に応用してはならない。極端な(しかし、よくある)例は「りんご=恋人(や子ども)」「みかん=仕事」と置き喚えてしまうものだ。相手に「私と仕事、どっちが大事なの?」と訊かれたとしよう。こんなとき、間違っても、「君との1時間は、仕事の2時間と同じくらい大事だよ」などと答えてはいけない。

そもそもこれは質問ではない。質問文の体裁を採った不満の表明なのだ。ネットでよくある模範解答に、「そんな質問をさせてごめんな」というものがあるが、これも「ちゃんと答えろ」と切れられる可能性もある。「君のことが大事だから仕事をしているんだよ」という答えもあるらしいが、「りんごが好きだからみかんを食べているんだよ」という答えと五十歩百歩だ。要はこの質問は、された時点でアウトなのだ。

日経新聞・朝刊  2019.6.10「あすへの話題」(経済学者 松井 彰彦)