玉砕の悲劇 風化恐れる
https://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/shitamachi_nikki/list/CK2016120402000135.html
太平洋戦争時、米海軍の通訳士官だった私がハワイの日本人収容所で知り合った、元日本兵のOさんが亡くなった。
享年百三歳。
戦後、敵味方のわだかまりを越えて付き合った元捕虜は何人かいた。一人減り、二人減り、Oさんが最後の一人。
ここ数年は会う機会も減っていたが、丁重に書かれた訃報が、ご子息から届いた。
戦争末期、Oさんが陸軍の軍医として派遣されたパラオ諸島ペリリュー島は、最悪の激戦地の一つだった。
兵力、装備で米軍は圧倒的。
日本軍は押されながらも徹底抗戦して、最後は玉砕した。
一万人以上が戦死。
Oさんは奇跡的に生き残り、捕虜になった。
その激戦は作家、小田実の小説「玉砕」のモチーフとなった。
私は、日本軍による初めての玉砕とされる1943年5月のアリューシャン列島アッツ島の戦いを目の当たりにした。
追い込まれても白旗を揚げず、最後の手投げ弾で自死した日本兵。その光景を忘れられなかった私は、「玉砕」を英訳し、英BBC放送がラジオ・ドラマに仕立てて世界に流した。
その玉砕をOさんは体験していた。
収容所は不思議な場所だ。
命を懸けて戦った敵国から、戦地よりも快適な生活環境が与えられる。
「生きて虜囚の辱めを受けず」と洗脳されていた捕虜のほとんどは「死にたい」「日本には戻れない」と頭を抱えた。
だが、Oさんは堂々としていた。
戦前から、海外の医学論文を読んでいたインテリだから、海外事情に通じ、捕虜の扱いを定めたジュネーブ条約も知っていたのだろう。尋問にも冷静に応じた。
私は捕虜に頼まれ、収容所でこっそりと音楽鑑賞会を開いたことがある。
Oさんはそれにも参加していた。
終戦から8年後の53年、京都大学大学院に留学していた私を、Oさんが訪ねてきて、収容所での思い出話をしてくれた。
「医学書を読みたい」と話した彼に、私が本を借りて、持っていったそうだ。私は忘れていたが、それを恩義に感じていたOさんが「これからは私がキーンさんの主治医」と言い出して、長いお付き合いは始まった。
ペリリュー島での体験はほとんど語らなかった。
その代わり「何であんな戦争をしたのか。国力、科学力の差からして勝てるはずがなかった」「少しでも海外事情を知っている人は、戦争を始めた東条英機を嫌っていた」とつぶやくことが多かった。同島の激戦は狂気の沙汰だった。
日本軍には本土への攻撃拠点にさせまいとの防戦だったが、より本土に近いフィリピンの島が米軍に占領された段階で戦略的に抵抗は無意味になった。
それでも日本兵は「バンザイ」と突撃して、散った。
その矛盾をOさんは頭で理解しながらも、自らの戦いは肯定した。「『3日で決着する』と言っていた米軍相手に、3カ月粘った」「捕虜になるまでの2カ月は飲まず食わずで頑張った」
目前で多くの僚友を失った彼の複雑な心境は分からないではない。だが、そう思ってしまうのも狂気の一部なのだろう。
私たちは先の戦争から多くを学んだ。
Oさんのような体験者の死で、それが少しでも風化することを私は恐れる。
(日本文学研究者 ドナルド・キーン)
玉砕 再び問いたい
https://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/shitamachi_nikki/list/CK2014040902100017.html
小田実と初めて会ったのは1959年、ニューヨークだった。
奨学金でのハーバード大学大学院留学を終えた小田が、私を訪ねてきた。
私の記憶では近くの中華料理店に行ったのだが、小田の日記には「手料理を振る舞われた」とあるそうだ。
それが正しいのだろう。
彼の妻によると、ベストセラーとなった小田の『何でも見てやろう』には、私の影響があったという。
私は江戸時代からの日本人の西洋に対する見方を調べて『日本人の西洋発見』を52年にロンドンで出版した。
邦訳が57年に出た。
その初版本を小田が読んで海外への関心を深め、留学したそうだ。
妻は、私も持っていない初版本を持参して、見せてくれた。
こそばゆいが、私がベストセラー誕生に一役買ったのなら幸いだ。
逆に、私が影響を受けた小田作品は98年の『玉砕』だ。
第二次世界大戦でパラオ諸島のペリリュー島で全滅した旧日本軍がテーマだった。
私は米海軍に通訳士官として従軍し、旧日本軍の初の玉砕とされるアリューシャン列島のアッツ島での闘いを間近に見た。
私は銃を持たず、誰も傷つけはしなかったが、凍てつくような寒さの中、生まれて初めて、ろう人形のような死体を見た。
その光景は今でも覚えている。
『玉砕』を読んで、私自身の記憶がよみがえり「これを英訳して、世界に伝えるべきだ」と思った。
小説の英訳は、35年前の三島由紀夫の『宴のあと』以来だった。
英訳本は2003年にニューヨークで出版され、それを原作としたラジオ・ドラマ『Gyokusai,The Breaking Jewel』が、広島に原爆が投下されてちょうど60年の2005年8月6日に英BBCワールド・サービスで放映された。
世界で4千万人以上が聴いたそうだ。
旧日本軍の玉砕は、理解できないことばかりだった。
最後の手りゅう弾を敵に投げるのではなく、なぜ自分の胸にたたきつけたのか・・・。
「生きて虜囚の辱めを受けず」と洗脳され、信じていたようだが、それは日本の伝統でも何でもない。
日露戦争では多くの日本兵が捕虜となり、彼らはそれを恥辱とは思わず、日本に帰還した。
アッツ島は戦略上、重要な拠点ではなかった。
その証拠に、近くのキスカ島から旧日本軍は何の抵抗もせずに退却した。
アッツ島からも退却できたはずだ。
ペリリュー島でも戦略上、不要となってからも抵抗は続いた。
米兵が「バンザイ突撃」と呼んだ玉砕。
何のために、どうして玉砕したのか・・・。
妻と久しぶりにお会いして、もう一度、小田に聞いてみたくなった。
(日本文学研究者 ドナルド・キーン)
https://note.mu/takamushi1966/n/naa907714daf3
ドナルド・キーンさん逝去で再紹介する「キスカ島撤退・戦場のジョーク合戦」
https://m-dojo.hatenadiary.com/entry/2019/02/24/175346