絶望からの再生
この世に生まれてきた人は誰でも、生きていこうという意思を持っている。
これは我々全員に具わった根源的本能である。
胎児は皆、母親の胎内で懸命に栄養を吸収して成長するし、オギャーと生まれ落ちれば、その瞬間におっぱいを吸い始める。
そんな時に「私はこのおっぱいを吸うべきか吸わざるべきか、それが問題だ」などと悩んでいる赤ん坊はいない。
なんの理屈も論理もなく、ただひたすらに生きようという思いがあるからこそ、私たちは今ここに存在しているのである。
人に限らず、「生きようとする」のは生き物の本性であって、どのような生物種でも生き残りに必死である。
ただしかし、人だけはちょっとだけその傾向性が違っている。
ただ単に「生きよう」と思うのではなく、「もっとよく生きよう」と思うのである。
これを良く言えば、「さらなる向上を目指す」。情緒的に言えば「夢を追いかける」。普通に言えば「もっと楽しい生活を求める」となる。
現在の状態を物差しにして、未来のことを予想することができるという能力が発達したせいで、「今よりもっと嬉しい気持ちでいる未来の自分」を思い浮かべ、それを実現しようと望む、それが人間独自の行動パターンを生むのである。
それが良いことか悪いことかは、人それぞれである。
大方の人たちは、「より良い状態を望むのは当然のことだ。だからこそ人は進歩するのだ」とおっしゃるだろう。
全くそのとおりで何の文句もない。
進歩の結果として危険な科学技術や怖い気候変動が生み出されたにしても、医学や土木など、蒙った恩恵の量も計り知れない。
より良い未来を望むことは、聞違いなく素晴らしいことである。
しかしここで考えるのは、そういった「一層の幸福を追求する」という生き方に耐えられなくなった人はどうするのか、という問題である。
思いがけぬ災害や突然の危難が、夢を壊し、右肩上がりの幸福感を打ち砕き、先行きの希望を奪ってゆく。
本能として持っている「より良い未来への欲求」が、外部要因によってどうにも実現不可能となった時、その人は何を拠り所にして生きていくのか。
もちろん、「頑張ればなんと、かなる」「気を取り直して一歩ずつ前に進もう」といった激励は大切だが、この世には、一歩も前に進めなくなって、蕭然と立ち尽くす人も大勢いる。
それでも生きねばならないのなら、それは、苦しみの海を泳ぐようで、あまりにつらい。そういう時に意味を持ってくるのが「自分の世界観、価値観を自力で変えることによって、絶望から逃れ出る」という道である。
言うは易く、行うは難し。
自分で自分の心を変えるなどとだいそれたことができるのか。
だが、実際にその道を切り開き、後進にその心得を言い残してくれた人がいる。
私が心から敬愛する仏教の開祖、お釈迦様である。
釈迦の教えを仏教というのだが、大抵の日本人がイメージする仏教と、釈迦の教えは全く
違う。
釈迦は、「苦しみだらけのこの世で、自分を救うことができるのは自分だけだ」と言っ
た。まさに今の私たちに向けての提言である。
執筆 仏教学者・佐々木 閑
日経新聞・夕刊 2020.7.3