梅原猛さんを悼む 瀬戸内寂聴

梅原猛さんを悼む 「純粋無垢なロマンチスト」 

今から五十二年前、私は東京から京都に移り住んで中京区西ノ京原町という御池通に面した所に住んだ。その家に少し馴(な)れた頃、梅原猛さんがいきなりわが家の玄関に立たれた。

初めて逢(あ)った梅原さんは、人なつっこい笑顔で、まるで旧(ふる)くからの知人のように私を見つめながら、近くへ来たから立ち寄ったと言い、

「あなたは遠藤周作さんと親しいでしょう。私も遠藤さんと親しくて兄貴のように尊敬しています。遠藤さんはあなたより少し年下なので、あなたを姉(あね)さま、姉さまと呼んでいますね。遠藤さんの弟分の私も、あなたを姉さまと呼ばせて下さい」

と一気にまくしたてた。その間、丸い親しげな顔に何とも言いようのない無邪気な微笑がひろがっている。私はその笑顔につりこまれて、自分の旧知の人に逢(あ)っているような気分になり、

「まあ、どうぞ」

と玄関から家の中へ上ってもらったのであった。その日、梅原さんは評判になっていた「地獄の思想」という本を下さったが、私はそれをすでに買って読んでいたので恥をかかなくてすんだ。

「あなたの書く小説も、まあ地獄のようなものばかりでしょう。我々は、いい友達になれますよ」

とも言った。この日以来、梅原さんとは、深く長い友情が結ばれた。梅原さんは、この日のことを、

「吾々(われわれ)は義兄弟の盃(さかずき)を交わした」

と、人々に言いふらして、笑わせていたが、私もいつの間にかそんな気持になり、つきあえばつきあう程、わたしなど及びもつかぬこの賢弟に恐れ入ってしまった。

長いつきあいの歳月に、一度の気持の行きちがいもなく、美しく聡明(そうめい)な夫人にも親しくしていただき、楽しい想(おも)い出ばかりが残されているのが有難(ありがた)い。

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梅原さんは京都にとっては宝もののような存在になり、文化面では最高の権威者になっていた。

哲学者と自称されていたが、その業績は、哲学ばかりでなく、文学や芸術面でも人の真似(まね)できない偉大な業績を残している。

偉くなった梅原さんから、私はいつの間にか、様々な役目を仰せつかったり、何かと文化的な集りに引っぱり出されることが多くなったが、体力の許すかぎり、その命令には応じてきた。

おかげさまで、二人とも長命で、九十を越し、百まで呆(ぼ)けないで仕事をしつづけようと話しあっていたが、梅原さんの方が一足早くあの世へ旅立たれたのが残念でならない。

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私のつき合った梅原さんは、一口で言えば純粋無垢(むく)なロマンチストだった。その上に、稀有(けう)の天才性を持っていた。東京から来る編集者は、私たち二人を共有することが多いが、先に梅原さんの方に行けば、あふれる梅原さんの口述原稿を書き写すことに留められ、私の方へ廻(まわ)る時間がなくなってしまう。

「わき出てくる言葉を書き取ることで精一杯(せいいっぱい)です。四百字づめ原稿用紙八十枚くらい、一晩で喋(しゃべ)り通すのですから」

との編集者の弁に誇張はない。やはり梅原さんは、存在そのものが神がかった天才だったのであろう。程なく、私も後を追うと思えば、長い別れとは思えない。

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美しい恋女房の夫人に梅原さんは頭が上らない。恐妻家といってもいい梅原さんの素顔を見たことがある。

私の故郷の徳島で講演をお願いしたことがあった。勿論(もちろん)日帰りの予定だったが、講演の最中から嵐になり、船も鉄道も空路もすべてとざされてしまった。仕方なく徳島の私の別宅で泊っていただくことになったが、その時、京都の夫人に電話をかけ事情を説明するときの、おかしさは忘れられない。

泊るのは私の別宅だが、私の甥(おい)が一緒に泊るのだとしきりに説明する。私と二人ではないと強調するのである。

翌日、私は京都まで同道し、夫人の許に無事送り届けたのが忘れられない。恐妻家になった原因があったのだろうと、私がいつまでもからかっていたのも、なつかしい想い出となった。

(日経新聞 2019.1.15)

コメント;
2019.1.14 、2日前に93歳で亡くなった哲学者・梅原 猛氏への追悼文。
寂聴さんは2021.11.9に99歳で逝去された。
したがって97歳前後で、このようなしっかりした文章を一晩で書かれたことになる。
そのことがすごい。

                                                                                 日経新聞 2022.1.14